燻製一筋三十年
理想の燻製を求めて
ひたすら「偏屈」に追求する
古代人が生んだ生活の知恵「燻製」
「燻製」と聞いて、皆さんはまず何を思い浮かべるだろうか。ベーコンやハムといった日常的に食卓に上る肉類のほか、最近では卵やチーズなども、独特な風味や香りが楽しめる嗜好品として親しまれている。もともと燻製は食材の保存性を高めるための手段であり、ヨーロッパで長い航海の保存食として豚肉の塩漬けが船に積み込まれ、火で炙って貯蔵された。それらを大量に乗せた船が各国へと渡り歩く際に、その肉、つまりベーコンの原型となるものとその製法が広がっていったのである。当初は塩漬けした食材を煙で燻すことで、食材の水分が減って細菌等の繁殖を抑え、保存性を高めるという利点から「燻製」という調理法は重宝されてきた。そして、技術の進歩と共に、冷蔵・冷凍など食材の保存環境が整ってきた現代では、加工の工程で生じる独特の風味と香り、色合いなどが好まれ、美味しさを追求した嗜好品として、人気を得ているのである。
「君にはできない」その一言で一念発起
そんな「燻製」に魅せられ、人生を捧げる男が「燻や」オーナーの田部英雄だ。幼い頃から食に敏感だった田部は、高校時代まで故郷・松江に暮らし、京都の大学へ進学。「料理が好き」だというその一心で、京都の名だたる料理店にアルバイトとして入り、料理の世界にのめり込んでいく。卒業後、一度は大阪の商社に就職するも、料理への想いを抑えられずに1年足らずで退職し、料理人の世界へ。料理店に勤めながら、仕事場だけでは飽き足らず、以前から興味のあったハム・ソーセージづくりに独学で取り組みはじめる。
こうして料理漬けの日々を送っていた田部は、とある百貨店で本格派熟成ハムに出合い、その味に驚愕。何ヶ月も塩水に漬け込んで寝かせた本物のハムの醸し出す豊かな味わいに夢中になり、その場で「自分もこんな商品を作りたい!」と訴えるが、「君にはできない」と即答されてしまう。しかし、田部は諦めるどころか、持ち前の探求心に火がつき、その日から本格的なハム・ソーセージ作りに取り組むことを決意。料理人を辞して、燻製づくりの道を歩むことを決意したとき、田部は29歳だった。
さまざまな工房のハムを食べ歩いた田部は、五島列島のハム製造工場に弟子入り。6年間の修行を積み、その間、技術習得のために自費で3回ドイツを訪れ、本場の味と技術を学んだ。35歳で独立し、43歳のときに、自らの理想のハム・ソーセージづくりを叶える七山へと居を移したのである。
食べれば分かる七山にこだわる理由
しかし、なぜ田部の選んだ場所は〈七山〉だったのだろうか。実は、そもそもハムやソーセージ、ベーコンといった食べ物は、日本の食文化には存在していなかった。日本の多湿な気候はカビの発生を促すため、本来はこうした加工食品の製造には適していないのだ。そんな中で、燻製に魅せれられた田部がたどり着いたのが、”七山“という場所だった。佐賀県唐津市七山(旧七山村)はその名のとおり、周囲を七つの山々に囲まれ、杉や檜などの山林が面積の約70%を占めている。この山々の樹木に濾された水は清らかでミネラルも豊富。近くには日本の滝百選にも選ばれた「観音の滝」をはじめ、いくつもの滝があり、豊かな水の流れが森林や湿原などの七山の自然環境を作り上げている。また、高台に位置するため風通しもいい。燻製は温度や湿度の管理、空気の流れの速さ、方向などによって仕上がりが微妙に変わってくるという。新鮮な空気と清らかでまろやかな味わいの水と相まって、豊かな自然に囲まれたこの場所ならではの「燻や」こだわりの燻製が、日々生み出されているのだ。
九州産にこだわり、素材にも妥協は一切なし
さらに、田部のこだわりは素材や製法にも及ぶ。まず、素材の健康状態にも気を配り、出自のしっかり分かるものしか使用しない。アミノ酸が豊富であっさりとした脂が特徴の沖縄・我那覇畜産のやんばる島豚(あぐー)をはじめ、生産者と直接対話し、選び抜いた九州産の豚や鶏を使用。加熱したときの旨味と甘みが絶妙だと評判だ。また、スモークに使用する燻煙材は、すべて国産チップ。燻煙材としてはヒッコリーがポピュラーだが、大量に海外から輸入される過程で、防虫剤の噴射が行われているとも考えらえる。田部はそれを良しとせず、青森、秋田、岩手、東北地方に生育するサクラやブナ材を選択。木材の種類によって、香りや色付き、食材との相性が異なるため、素材の使い分けを行ったり、ブレンドして香りの深みを出したりと強いこだわりを持って、スモークの乗り具合を調整。お客様に自信をもって提供できる商品づくりを行っている。
肉だけじゃない!九州の海の幸を燻製で堪能
また、新鮮な海の幸が手に入る九州ならではの特性を生かし、さまざまな魚介類の燻製にも取り組んでいる。素材は生のままでも食べられる新鮮なものを厳選。例えば、国産の鯖をじっくり冷燻した「寒さば燻製」は、ほどよく脂がのり、口に入れると生ハムのような食感とほんのりと香るスモークが楽しめる。あっさりした味でさわらの皮の焦げ目も香ばしい「さわら燻製」、広島で獲れた特大サイズの牡蠣をスモークしてひまわりオイルに漬け込んだ「牡蠣のスモーク・ひまわりオイル漬け」も絶品。その他にも、地元唐津や松浦の漁港で水揚げされるイカや天然の鯛の燻製など、海の幸の新たな美味しさを教えてくれる燻製が目白押しだ。
ひたすら「偏屈」に。夜な夜な燻製をつくり続ける
本物の美味しさを追求する「燻や」では、インジェクターという機材を使わない。これは、原料のブロック肉に水を加えてかさ増しをする製法で、本場ヨーロッパでも約20%まで加水をしていると言われている。しかし、田部は大手ではないからこそできること、自分の納得のいくものを提供することに頑なにこだわり、水や糖分、余計な添加物などを加えず、素材本来の旨味を活かした燻製を生み出しているのだ。その味は世界にも認め られ、数々の賞を受賞。しかし田部の飽くなき探求心は尽きることなく、夜な夜なさまざまな食材をスモークして「うまい!」と思えるものの商品化に取り組んでいる。現状に満足せず、これからもよりおいしい燻製を求めて、田部は今日も、挑戦を続ける。